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理容業界の前身、髪結いと徳川家康との関わりは、三方ヶ原の戦いに敗れた家康は後ろに迫る武田軍、行く手は前日からの大雨で増水した天竜川に阻まれ、進退窮まって、もはやここまでと死を覚悟した処へ北大路籐七郎(理容業の業祖、藤原来女亮(うねめのすけ)17代の後胤)が通り掛り、浅瀬に導き家康は無事に浜松城に引揚げる事が出来た。当座の褒美として銀銭1銭と脇差を頂戴した。以来髪結い職は1銭職と称すべしと仰せを蒙った。(中略) 4代将軍家綱の時、髪結い職の株仲間の申請をした処、由緒正しい家柄だと判り御府内八百八町、八十八軒の髪結いに「1銭職」株式が許され焼印の鑑札木札を頂戴した。(中略)こうした事から徳川家康が元和2年4月17日、75歳でこの世を去った、その命日を喪に服して休んだのが、髪結いの休みの始まりだと伝えられている。 いつの頃からか、毎月17日が定休日となり、更に7日と27日が加わって7の付く日が定休日となった。第2次世界大戦後、理容店の休日が月曜日なのは何故か?「停電日が月曜日だったから!」いつ何処で誰に聞いたのか記憶が定かでは無いけれど、なまじ頭の隅にインプットされていた為に、その確証が欲しいと調査する事にした。 神奈川県鶴見の東電史料館に問い合わせ、府中工務所から東電50年史を借りて調べる。東電になったのは昭和26年で、その前身は東京電燈と関東配電で、社名の通り東京と川崎が東京電燈で神奈川県・山梨・埼玉・栃木・茨城・千葉が関東配電だったのではないか?と推測したり(以上の県は理容店の休日が大体火曜日だった)特に神奈川県は川崎だけが月曜休みで他は火曜休みと分かれている事は理容組合の組織上考え難い事で、余程の止むを得ない特別の事情が在ったのでは無いかと思われる。それが停電日の違いだったのでは無いか?と言う事から神奈川県を中心に知人を通して業界の長老に聞いて貰う事にした。 その間、図書館で当時の世相を反映している新聞をマイクロフィルムで読んでいった、昭和21~22年の電力は殆んどが水力発電に頼っていたようで、「東京地方並びに水源地に16ミリの雨が降り、これで3日分の電力が賄える模様と…」まさに爪に灯を燈すような電力事情が記事となっていた。 一方神奈川の知人によると、組合幹部、業者の長老、その他尋ねた処、火曜停電説が多く次に土曜、日曜が忙しく、やりきれなかったお客様を月曜にお出で頂き暇になる火曜日を定休日とした等などで、裏付けとなる確証は無かったと言う返事を頂いた。 図書館で調べた本の中に「日本大百科全書24り~ん」小学館から抜粋すると「理容店の休日に月曜日が多いのは、第2次世界大戦中の電休日が、そのまま休日として定着、現在に至っている、と言う説もある。近年、日本における理容業界の発展は著しいものがあり、海外理容業界との交流も活発に行われ、世界規模による技術のコンクールも数多く行われている。その技術水準はトップクラスであり、いまや日本の理容技術は世界の理容をリードしていると言ってもいい。」とあり、停電日が月曜日であった事が百科全書の中に記載されていたのは初めての事で確証を得た思いであった。 その後も更に調査を続けてみると、昭和21年11月「電気需給調整規則」公布、主な制限内容・公示期間中は、使用停止日、時間、使用電力量、最大電力の限度を越えて電気を使用してはならない。しかし電気の使用制限だけでは対応できず、緊急遮断(停電)、が相次いで行われた。昭和22年11月以降ロウソク送電、緊急遮断(停電)、休電日の指定も第一段階の週1日程度から、 緊急時には第2、第3段の週2日、3日と増加された。 次に各デパートが、ひところ月曜日が定休日であった事を思い出し、伊勢丹、三越、高島屋と足を運んでみた。伊勢丹100年史、高島屋150年史には、昭和14年7月日本百貨店組合東京支部の会合で月曜定休となる。(中略)三越資料編纂室の定休日の変遷によると(戦前、戦中割愛)昭和22年8月週休の変更「水曜日」、昭和23年11月から「月曜日」定休となる。(当時は水力発電に頼り、渇水期であり、電力の極度の枯渇のため毎週・月・水・土曜日が休電日となった)。水曜、土曜日の停電日は無灯火でローソク等で営業した。 以上のことから、電気需給調整規則の休電日が一次規制・二次規制・三次規制が月曜日・水曜日・土曜日であったことが頷ける。従って停電日が月曜日であった為、理容店も、デパート も月曜定休日であった事になる。 理容業界でも営業日であっても一時的な停電は日常茶飯事でご高齢な理容師は、ローソクを持たされたり、ローソクの灯りで仕事をした方も居られる事でしょう。 終戦後は、店を開けるとお客様が行列をして待って居られ、タオルもお客様持参で終日忙しかったが、公定料金(マルコウ)でヤミ米が、やっと一升買えたかどうだか、というような生活だったようです。 この辺にきて、元日技会相談役・元全理連講師・故星野亀与三先生に承った事を思い出す事ができた。 |
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