NRG 日本理容技学建設会
 


     “渋沢平九郎”最後の足跡を辿って 

              東京本部 狐塚均 
              naturel_12@yahoo.co.jp 

緊急事態宣言下ではあったが、自宅から県境をまたがず行ける場所でもあり平日でもあったので、幕末のイケメン渋沢平九郎の最後の足跡を辿ってみた。
イケメン・渋沢平九郎

 峠の茶屋へ
 平九郎は、今年の大河ドラマの主人公渋沢栄一の見立て養子である。元々義弟であった平九郎を渋沢栄一がパリの万国博覧会に出席するために、見立て養子として迎えたものである。平九郎は兄尾高惇忠や渋沢喜作(成一郎)など周りの環境が影響してか、素直で志の高い若者に育ったようである。そして渋沢栄一の養子となり責任感を増したのだと思う。
 そんな中、旧幕府のために力を注ぐことになった。当時幕府は薩摩や長州などに錦の御旗を突き付けられ賊軍となってしまった。新政府軍と旧幕府軍との戦いの中で平九郎は飯能戦争と言われる争いで新政府軍と戦っていた。戦況は圧倒的に旧幕府軍不利の状況である。一緒に戦っていた尾高淳忠や渋沢成一郎などとは逸れてしまい、山中を歩いているうちに顔振峠の茶屋に辿り着いた。
 そこで茶を一杯飲み茶屋を出た。茶屋の目の前は、秩父方面と越生方面(黒山)との分かれ道になっている。その時茶屋の女主人は、越生方面に行くと敵に見つかるので秩父に行くように勧めた。しかし平九郎は秩父側には行かず、越生側に行った。女主人は袖を引っ張り止めたそうであるが、平九郎はその手を振り払い越生方面に山を下りて行ったそうである。その後平九郎は故郷(現在の深谷)に向かおうとしていたのではないかと言われている。
 今回私が最初に行ったのは、その茶屋である。今は平九郎茶屋と名付けられている。そこの女将から代々伝わったこの話を聴くことが出来た。そしてそこに今でもある秩父と越生への分かれ道を見て来たが、そこに立って左右の道を見比べてみると、感慨深いものがある。
 ちなみに平九郎茶屋の女将に一緒に写真を撮らして欲しいとお願いしたところ、「今年はもうテレビ局やら何やらさんざん撮られたのでもういい」と言って頑なに断られてしまった。ご自分の意見をしっかり伝えるところなどは、茶屋の女将として今も昔も変わらない性分なのかも知れない。
 平九郎茶屋
 左が秩父方面、右が越生方面
 秩父への峠越えの道
 黒山(越生)へ下る道

 平九郎自決の岩

 峠の茶屋から山を下って行った平九郎だが、すぐに数人の敵に見つかってしまった。敵に旧幕府軍の兵士と悟られないように刀は茶屋の女主人に預けて来たので、その場は持っていた小刀で戦いなんとか切り抜けた。その際、敵も傷つけたが、平九郎自身深傷を負ってしまった。そしてまたいつ敵が襲ってくるかわからないような状態であった。そんな状況の中で、平九郎は武士らしく自決することを決めた。

 二番目に私が辿った場所は、今も残されている「平九郎自決の地」である。自決した時の岩の前で手を合わせると、傍らにのちに地元の農民が植えたとされる大きなグミの木があった。夏前には平九郎の死を表すような真っ赤な実がなるそうである。
 平九郎自決の岩
 自決の岩の前で

 平九郎の墓
 むごい話ではあるが、新政府軍にとって平九郎は賊軍の兵士である。遺体は首をはねられ、その首は新政府軍により、少し離れたところで暫くさらされていたそうである。残された胴体を村人が近くのお寺に埋め今は平九郎の墓として全洞院というお寺に墓石が立っている。
 三番目に私が辿ったところは、この「平九郎の墓」である。坂に沿って墓石が並ぶ墓の一番奥にひっそりと残されていた。とは言っても今年は観光がてら来た人が多かったのかもしれない。
平九郎の墓

 平九郎埋首之碑
 村人にとって新政府軍と言ってもまだ馴染みのないもので、代々続いた幕府にこそ様々世話にもなっていたのであろう。新政府軍がさらしておいた平九郎の首は法恩寺の境内に村人らが埋めたとのことである。まだそこでは平九郎の名前も解からず脱走様(だっそさま)と呼ばれたようである。
 最後に私が辿った場所は、越生駅近くの法恩寺にある“平九郎埋首之碑”である。平九郎の実際の遺骨は、その後渋沢栄一の指示で都内の正式なお墓に移されたとのことである。
平九郎埋首の碑

 幕末の志士たち
 幕末に名を残した若者には薩摩・長州・土佐・水戸などが多いが、私が住む北武蔵(埼玉)にも志の高い若者が多くいたことを、今回の大河ドラマで知った。しかし勝てば官軍というが、一夜にして官軍と賊軍がひっくり返るような目まぐるしい時代である。官軍が良い人間で賊軍が悪い人間などということは、全くない。同じ血を継ぐ日本人同士である。その時の巡りあわせの結果だけである。実際渋沢家や尾高家の若者も最初は倒幕思想があり、未遂に終わったが横浜焼き討ち計画を企て幕府を転覆させようとしていた。それが最後は将軍を守ることに命を懸けるような状況になったのだ。
 この頃は能力があって官軍に敵対視された人物は、ことごとく命を落とすことになった時代である。渋沢栄一のようにのちに活躍する人物は、運よくその時代を生き抜いたが、状況によっては渋沢栄一にしてもどうなっていたか解からないような時代であった。そう考えると命を落とすことになった多くの志士の中には生きていたら、国のために活躍するような人物がたくさんいたのだと思う。

 志と若者
 若者が国を良くしようと志を持ち、行動に移すことは、何も幕末だけのことではない。しかしその行動は常に若さ故の危うさも伴っている。前述した横浜焼き討ち計画などもドラマで見る限り無謀他ならないもののように思う。
 話は変わるが、私が若い頃には学生運動が良くニュース沙汰になっていた。学生が素直に国を良くしようと思って過激にも見える活動をしていたように映った。しかしテレビで見る限り最後は赤軍派と呼ばれたグループが度を越した過激な行動に移し、当局から追われた先々で仲間を殺し、そしてあの浅間山荘事件で終焉となった。そこにはもう志など全く無縁のもののように思えた。志も道を踏み外すと結果が望む方向とは逆方向に進む。また幕末に戻るが新選組が法度と称して仲間を処罰していったが、今から見ると若気の至りもあったのかもしれない。
 もちろんここで危うさがあるからいけないということを言うつもりはない。負を伴う志が国を発展させて来たことも事実である。またこれからもそれは、ある意味変わらないことであろう。

 現代の武士は・・・
 幕末までの武士は、その頃のドラマを見ると、何に命を使うかという考えが強いように思える。現代の時代で命を使うとはどういうことなのだろうか。それはその人間の持つ時間と能力の使い方が現代に於ける、その人間の命の使い方と考えることが出来る。
 そうしてみると今の時代でも世の中のために自らの持つ時間と能力を注いでいる人間は、当然たくさんいる。最近私は良くユーチューブで様々な人の話を聴くことがあるが、ソフトバンクの孫正義社長などの話を聴くと、正に高い志を持つ現代の武士のような人だと思ってしまう。あの人は多分幕末の頃に生きていたら世のために命を使った人なのだろうなとも思う。

 妄想から覚め現実に還り
 平九郎の足跡を辿ってみて、帰りの車の中でここに述べたようなまとまりのない想いが次々と頭に浮かんでいた。そして自宅に着き現実に戻った。さてこれから私はどうしよう。100年時代とは言っても平均余命を考えると100まで生きることはないと思う。“国のため”などというつもりは毛頭ないが(当り前)、であれば残りの生涯を目の前のやるべきことに専念しようと心に決めた。これまでお世話になった人々に感謝をしつつ、他人のためになることを少しでも出来たら良いのではあるが・・・。
 平九郎がそんな気付きを与えてくれたのかもしれない。今年の大河ドラマも後2か月余りである。時代は明治に入りドラマの内容も趣が一変するのではないかと思うが、最後までしっかり楽しませてもらうつもりである。

 ※ここに記載した内容は私の浅はかな知識に基づいたものですが、史実と異なる部分がありましたらお詫び致します。

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