西村幸男先生を追悼して
西村先生の訃報は衝撃でした。
病気と苦闘されていることは聞いていましたが、緊急入院されてから二週間、あまりにも早いお別れ。理容のことはもちろん、いつも、いろいろのことに全力をつくしての先生、まだまだ大きな抱負をもっておられたのではないかと思うと、言葉がありません。残念でなりません。
私が、西村先生と初めてお目にかかったのは、昭和34年4月、中央高等理容学校(現在の中央理美容専門学校)6期生として入学した時です。父が、私を西村先生に引き合わせてくれました。それ以来、さまざまな場面が目に浮かんできます。
日技会総本部での西村先生。
西村先生は、決まりごとにルーズな人には、たいへん厳しかったです。コートを着て、ボタンをキチンとはめないと注意されました。事務所に入る時、コートを脱いでから入らないと注意しました。「理容師である前に社会人であれ」、社会人としての常識や、振る舞い一つひとつが持つ意味まで熟知していた西村先生。そのうえで、理容師の理想像を追求してこられました。だからでしょう、伝統や文化を学ぶという姿勢に欠けている人には厳しかったのです。
私が日技に入会して4年目、助講師になり指導的立場になる、「理容師は、技術する時には白衣を着用しなければいけない」と。運営委員になると、もっと厳しかったです。人から敬われなければいけない立場なんだと言う事。
私にとって何よりも貴重な思い出は、先生と色々な所へご一緒した時の先生のことです。
先生は、どんなに難しい会議でも、表情ひとつ変えずに淡々と振る舞い、しかも、相手に自ら手を差しのべて敬意を表すのです。また、先生はいろいろな勉強会で、他者から学ぶ姿勢を貫いておられました。
西村先生からバトンを受け、斉藤会館の事務所で、西村先生と二人きりになった時の事です。先生は私に「周囲には気を付けなさい」と、そっとご注意くださった。「おだてられて、こっちも勘違いし、ついつい英雄気取りになってしまう」「ほっとけばいいんだよ」と・・・。
数年前、中央校の機関紙「ザ・セントラル」に会主斎藤隆一先生の遺品をテーマにして西村先生が執稿しました。原稿に合わせて、先生は、私に、写真を撮るよう命じました。先生は、決められた文字数の中で作文するのですが、今の時代に合わない、自分の気持ちに合わない、と感じた時は、思い切ってその文章を変えるのです。しかし、斉藤理論を徹底して調べてその精神を活かす工夫をつくす、その取組ぶりには深く共感しました。そんな時、理容とは何か、と言う、そもそも論でも、たいへん盛り上がりました。私が「こうではないのですか?」というと、先生は「そうかなー、いや違うよ」と、その実例を語り始める、といった具合でした。そのことを、多くの理容師にわかる言葉で、いかに正しく伝えるか、これも二人が「考えが一緒だね」と、大いに意気投合したことです。
西村先生の技術者としての心情は「美しく技を」でした。
この一言の中に、先生の業に対する愛情の深さが、強く込められていたように思えてなりません。美を求め、美を奉仕する者として、すべてに美しくありたい。私どもは、先生の、このお言葉を、生涯忘れることができません。私どもは、先生の願いや勇気、そして人への深い愛情を、それぞれの胸にしっかりと宿しながら、これから頑張りぬいていくことです。
今は亡き西村幸男先生とお話させて頂いたことの一こまを紹介させていただき、追悼の文章といたします。
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